ロックンロール日記
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音楽業界への道

 ◆第三回  こうしてチャンスをつかんだ! 実例集
 「どうやったら、音楽業界の仕事につけるの?」ということが、業界を目指す多くの人たちのいちばん知りたいことだと思う。でも、第一回第二回で書いてきたように、音楽業界の仕事自体がかなり多様化しているし、その境界線もあいまいなことが多いことから、仕事につく方法も千差万別。人によってまったくその方法が違うので、「こうすれば、音楽業界で仕事ができます」なんていうマニュアルは存在しないのが現状である。学校を卒業して入社試験を受けて就職するというごくまともな方法もあるけれど、音楽業界の場合、(言葉は悪いけど)零細企業が少なくないので、そういう王道パターンじゃないことのほうが多い。ひたすらいろいろな可能性を追求して、なんとか仕事の糸口を見つけるというのが、王道以外のやり方だが、こんな風に説明してもよくわからない人がほとんどだと思う。そこで、今回は、わたし自身が知っている、みなさんの就職活動のヒントになる人の実例を、いくつか紹介していきたいと思う。 


その1.音楽ライターになったHくんの場合
 は高校時代から音楽ライター志望で、月刊の某音楽雑誌に、毎月、2〜3本のライヴ・レポートを送り続けていた。自分でお金を払ってコンサートを見て、そのライヴ・レポートを書いていたのである。もちろん、雑誌の編集部には読者やライター志望者からのライヴ・レポートは数多く届くので、最初はなしのつぶて。でも、めげずに約1 年間、それを続けていたところ、ある日、編集部から電話があって、「読者のページ」の中のライヴ・レポートを頼まれたという。そのときはノー・ギャラだったが、コンサートには取材という名目で招待してもらえて、彼はそれだけですごく嬉しかったという。このときのライヴ・レポートが編集部に認められて、翌月からは正式にライヴの取材依頼をされるようになった。そのうちにライヴだけではなく通常のインタビューなども発注されるようになり、今ではプロの音楽ライターとしてしっかり仕事をしている。編集部にライヴ・レポートを送り続けていたときに気をつかったことはあるかとHくんに聞いたところ、「封筒に自分の名前を大きく書くことと、原稿はきちんと下書きをして何回も読み直してから清書して送るようにした」ということだった。ちなみに、彼は大学で経済学を専攻していて、ライターとしての正式な勉強はまったくしていない。

その2.カメラマンになったY嬢の場合

 大学生のときに「カメラマンになりたい」と思い立った彼女は、大学の文学部に通いながら、バイトをして貯めたお金で夜間の専門学校に通学。大学卒業後はその専門学校の講師に紹介されたプロのカメラマンの元で、アシスタントとして働き始めた。といってもギャラは交通費程度で、仕事はほとんど力仕事か雑用。もともと身体があまり丈夫ではなかった彼女は、ハード・スケジュールと栄養失調(お金と時間がないので、毎日、カップラーメンばかり食べていたらしい。まともな食事が取れたのは、師匠がスタジオで撮影するときに支給されるお弁当を食べるときだけだったという)で身体を壊して仕事を辞めざるをえなくなってしまった。

 アシスタントを辞めてからはバイトをしてお金を貯め、再びアシスタントの口を探すが、なかなか見つからない。そこで、彼女は自費で作品を撮り始めた。彼女にはスタジオ写真を撮りたいという目標があったので、貯めたバイト料はすべて作品撮りに注ぎ込んだ。モデルやヘアメイクはアシスタント時代に知り合った人に頼み込んでただでやってもらったが、それでもスタジオ代やフィルム代などの経費がかなりかかった。完成した作品を持ち、つてを頼っていくつかの編集部を回るが、なかなか仕事の発注はない。そんな時、ただで被写体になってもらった知り合いのモデルの事務所から、ギャラなしでモデルの売り込み用の写真を撮ってもらいたいという依頼が舞い込んだ。ギャラはなかったけれど材料費は出るし、自分の撮影のときにノー・ギャラでやってもらった恩義もあるので、彼女は快く仕事を引き受けた。そうしたところ、モデルのプロモーション写真を見た広告代理店や編集部から、ポツポツと小さな仕事が舞い込むようになった。彼女はすべてが勉強だと思い、どんなに小さな仕事でも、ギャラが安くても、一つ一つの仕事を丁寧にやっていた。少しずつ仕事が増えてきた頃になって、以前に売り込みに行った編集部から思い出したように仕事の依頼が入り始めた。現在は、バリバリにプロのカメラ・ウーマンとして、活躍中である。

その3.超売れっ子プロデューサー亀田誠治氏の場合

 椎名林檎や平井賢等、ヒットチャートの常連であるアーティストを数多くプロデュースしている亀田誠治氏。実は、昨年の終わりに亀田さんの取材をさせてもらったのだが、彼はプロになるためにものすごく地道に努力を積み重ねてきた人で、その話には感銘するところがたくさんあった。きっとこのページを読んでいる音楽業界をめざしている人にとっても、ヒントになる話だと思うので、ここで紹介したいと思う。

  亀田氏は中学時代から「音楽でプロになる」と思っていて、大学時代もバンド活動やデモ・テープ作りに精を出していた。当時はまだ自宅録音はあまりポピュラーではなかったので、懇意にしているスタジオを使ってデモ・テープを作っていたのだが、そのうちに自分個人や仲間のデモ・テープを作るだけでは飽き足らなくなり、スタジオで「ナンパ」を始めたという。スタジオにリハーサルをしにやってくる見ず知らずのバンドに、「僕と一緒にデモ・テープを作りませんか?」と声をかけて誘ったのだ。いろんな人のデモ・テープ作りに参加していれば、当然、作品をプロが聞いてくれるチャンスも多くなる。また、自分自身の作品も作り、定期的にレコード会社にデモ・テープを送り続けていた。だが、なかなかチャンスはめぐってこなかった。レコード会社からは何の返答もないし、自分が手伝った周りの人ばかりがプロへの切符を手にし、取り残されたような気持ちになったことも一度や二度ではなかったという。けれど、24歳のとき、ようやく幸運の女神が微笑んでくれた。某アイドル・グループが曲を募集しているという情報が入り、真面目にアレンジして曲を作ったら、曲が採用されただけではなく、アレンジまで任されることになったのだ。しかも、時を同じくして、長年、リアクションもないのにデモ・テープを送り続けていたディレクターも、某シンガーソングライターのアルバムに採用してくれた。こうして、亀田誠治の輝かしいキャリアの第一歩がスタートしたのである。


 以上、わたしが実際に知っている3人の体験談である。この3人に共通していることは、自分の夢をつかむために、しぶとく粘っこく頑張ったということ。地道に努力し続けること、諦めないでやり続けることが、何よりも大切なのだ。棚からぼた餅なんて待ってると、いつのまにかおじーさんおばーさんになっちゃうよ! 
 
大島暁美のロックンロール日記